TOKYO TATEMONO RECRUITING

当社についてプロジェクトストーリー

PROJECT STORY

有明地区住宅開発

プロジェクトをそれぞれの視点から語る

発展期を語る

踏襲ではなく、前進
成功を継承し、
さらなる価値を生み出す

三谷 和仁

住宅事業部 グループリーダー
2003年中途入社

※在籍部署はインタビュー当時の部署となりますので、
現在の部署とは異なる可能性があります。

PROFILE

大学では、文系の学部を専攻していたが、ものづくりに携わりたいという想いから、不動産業界を志望する。東京建物には中途入社。以前の不動産ディベロッパーでは、主に営業の仕事を担っていたが、開発に対する想いが募り、転職活動を始める。東京建物は、同業の立場から見ても、歴史ある企業でありながら変革を厭わない姿勢を強くもっており、ここで開発に携わっていきたいと考え、入社を決意する。

「私と有明エリアの開発は、ブリリアマーレ有明の販売所長として関わったことから始まりました。しかし、当時、リーマンショック後の不動産不況の局面にあり、非常に厳しい販売活動を強いられました。正直、悔しかったですね。自信をもってお勧めできるこだわりの物件でしたが、自分たちの力だけでは、どうにもならない状況に直面して」。販売所長という立場で関わりはじめた有明エリア開発プロジェクト。開発を手掛けた仲間や関係者の想いに触れていたからこそ、思うように販売が伸びない状況に悔しさを覚えた経験は、その後の有明エリア開発への強い想いへとつがっていく。その後、部署異動により開発の仕事に携わることとなった。「東京建物の有明エリア2棟目の開発となるブリリア有明スカイタワーの開発に前任者からバトンタッチされる形で携わりました。ブリリア有明スカイタワーは、ブリリアマーレ有明の開発を評価いただき取り組むことになった物件です。ブリリアマーレ有明の販売に携わった経験から、お客様のニーズに一番近くで触れてきた自負はありました。初めての開発経験でしたので、これまでのキャリアで得た知見を活かして、全力で臨もうと息を巻いていました」。

インタビュー風景

その後、三谷は有明エリア3棟目の開発となるブリリア有明シティタワーの開発に携わることとなる。先人たちが築いてきた実績を活かしどんな新しいものを創り上げるか。三谷にはある確固たる信念があった。「開発には、ひとつとして同じものはないということを強く意識しました。過去2棟の開発をただ踏襲したアプローチでは、価値を生み出すことはできません。ただ、すべてをゼロベースで考えるのではなく、良いものは取り入れ検討を重ねていきました。例えば、過去の2棟でも取り入れ話題を集めた最上階に設置したラウンジスペースは、過去の流れを引き継ぎ非現実的なスペースを追求し、都心のリゾートを目指し開発を進めていきました。同時に目を向けなければならなかったのは、東日本大震災により湾岸エリア全体に生じていた安全性に対する不安を、どのように対処するかでした。安全面を大きく打ち出したことも、このプロジェクトの特徴だったと思います」。こうして一から開発に携わったブリリア有明シティタワーは、竣工を迎える。振り返れば少なからずプレッシャーはあった。これまでの2棟とどのように差別化を図るかと思い悩む日々。「最終的には、そのプロジェクト固有の事業環境や与件の中で、さまざまな事業判断をしていかなくてはなりません。担当が違えば当然事業の有り様も異なり、正解と言えるものはありません。その中で、自分自身で目の前の事象に対して何が最適なのか、ということを常に考えていかなくてはならないことが、本当に難しかったですね。」

有明地区住宅開発

無事、竣工を迎えたブリリア有明シティタワー。販売当初は、東日本大震災による湾岸エリアに対する不安な声も多く、順調に販売戸数を伸ばすことはできなかった。しかし、ある出来事をキッカケに、状況が大きく変わる。「東京オリンピック・パラリンピックの開催決定は、大きな転機となりました。有明エリアへの注目が高まり、販売戸数も一気に伸びていきました。この転機もそうですが、有明エリアでの開発の中で、自分や当社の力がまったく及ばない出来事や事態により、大きく事業が左右されることを何度も経験しました。どんな環境下においても、忍耐強く、不断の努力を積み重ねていくことで、最後にはそれが必ず成果に結びつくということを痛感しました。今でも事業が上手くいっている時も、そうでない時も、一喜一憂せずに仕事に取り組むよう心がけています」。経験を財産にし、地に足をつけて開発に臨む。有明エリアの未来は、さらに広がっていく。